父の日が来る前に・・・
2017.06.15.
この記事は、アグラ設計室の公式HPにまで飛んでしまうのだが、基本的にプライベートブログであるので、今日の気持ちを書き記しておきたい。
先週の末、父が享年80歳で永眠となった。今時としては早いと言われる方もいたが、まぁ、今の日本人男性の寿命平均がちょうど80歳。本人はもっと生きたかったであろうが、それでも中身の濃い、生きた証のしっかりとした素晴らしい人生だったと思う。
この写真は、今から20年ほど前、私がスペイン・アダルシアの大西洋側の街カディスに住んでいた時、父が母と姉を連れて訪ねてくれた時のもの。皆が歩き疲れて、街中の公園で一服しているときを姉が撮った。
父は、私が言うのもおかしいが、相当やり手なビジネスマンであった。昭和の高度経済成長時代、日本は相当の加速度を持って発展したが、それには彼のようなカリスマ的なエネルギーと闘志を持った勇敢な戦士たちが必要だった。
もちろん、誰もがみな必死に働いた時代だったけれども、人々をリードする人材がいなければあれほどの成長はなかったろう。彼はその役割を、地方都市でキッチリと果たした。
仕事だけでなく、遊びもしっかり・・・というのは、有能なビジネスマンの条件。父も両方を使いこなし、遊びがしっかりできるからこそ、ビジネスに人がついてきた。
私自身は子供の頃、父とたっぷり遊んだという記憶は少ない。その頃の週休1日の休みは土日ではなかったし、平日の休みは、ほぼ必ずゴルフに行っていたように思う。当時は数百万円もするゴルフ場の会員権を、会社からいくつも持たされていた。
授業参観はもちろんの事、運動会などにも父は来ない・・・なんていうことは、昭和の時代ではそれほど珍しい事でもなかったから、さみしいと思ったことはない。そのまま私も大人になり、大手の建設会社に就職。とりあえず社会人になったわけだが、それまで特に男同士の話はなどしたことはなかった。
数年して私が一念発起、会社を辞しスペインに渡って新しいチャレンジを始めると同時期に、父も59歳で会社を辞することとなった。東京にいた父の会社のオーナーの息子が帰ってくることになり、父の下にポストを作らねばならなくなるのだが、このままでは無用の派閥を作ることが予想された。そのために、父は仕事の引き継ぎをして身を引くような形になった。父を信頼する部下の多くも、一緒に辞した。
期せずして、同時期に会社を辞めた私たち親子。それを決めたとき、つまりまだ会社を辞する直前に、母と姉を含めて家族4人で箱根の温泉に行った事をとてもよく覚えている。この写真から3年ほど前だ。
父も母も、ずっと若いときに遠くから引っ張られて今の街に来たために、我々家族には親戚のような人たちが近くにいなかった。だから逆に、父が忙しくて家にあまりいなかったとはいえ、家族のつながりは強かったように思う。だからこそ、この冬の家族4人の箱根をよく覚えている。
その時、旅館の男湯で、初めて父とまともに話し合ったような気がする。と言っても、お互い新しい道を歩くのだから、特に父から厳しい話をされたわけでもない。お互いの話をしただけだ。
父は、この後、父と一緒に以前の会社を辞した部下と、昔取ったいくつかの資格を使って社会保険労務士・行政書士事務所を興した。小さな事務所だが、昔からお付き合いの深いお友達がクライアントになった。
経済的に余裕はなくなったが、時間的に余裕が出来たのか、私の3年間の在西(スペイン)時代に、母と姉を連れて2回も訪ねて来てくれた。当然、私がスペイン語を通訳しながら家族4人でいくつかの街を一緒に巡ったのだが、父の私に対する言葉づかいが変わったのを、しっかり覚えている。
『おまえ』から『あんた』に変わった。
認められたというほどではない事は、よくわかっている。ただ、なんでもできる父が、さっぱりわからない言葉を使って道案内しタクシーの運転手のくだらない話を通訳する私を、少しだけ見直してくれたのではないだろうか・・・。
奇しくも今週末は、父の日。ま、大人になってからは電話以外に特別の事をした覚えはないが・・・、今年の父の日は仏前に手を合わせることになった。何か、無念を感じるようにも思う・・・。
彼の大きな背中は、結局越えられなかった。到底無理なほど大きな背中だった。私が超えたのは、身長と体重だけだったな・・・。
最後の瞬間を一緒にいることができた。母と姉が両の手を握りずっと話しかけ続ける中、私は数十分間、ただただ呼吸の数を数えていた。そして、呼吸の数がゼロになった。本当は、何か話しかけたかった。それが出来なかった。やはりダメ息子なのかもしれないな。
冷静になろうとして、それで出来たことは、息を数えることだけだたとは・・・ブツブツ・・・・・。
by agra (バイアグラ)